椿絵コレクション-その由来#1
UNPEL GALLERYは、2020年12月オープンして以来、ギャラリーを運営する、あいおいニッセイ同和損保が所蔵する「椿絵コレクション」の展覧会を毎年開催しています。
このコレクションについては、「あいおいニッセイ同和損保の前身会社の一つである大東京火災の創業者反町茂作(そりまちしげさく)が、四季を問わず緑をたたえ、鮮やかな花をもつ椿を好み、社花として親しまれたことから椿をテーマとした絵画・工芸品が蒐集された」とご紹介しています。
今回からその由来についてもう少し詳しくお話をしていこうと考えています。
反町茂作の生い立ちと事業家としてのスタート
大正2年 24歳 反町常次郎商店支配人当時
椿絵がコレクションされたきっかけとなった反町茂作はどの様な人だったのでしょう?
先ずその生い立ちと、事業家としての足跡を見てみましょう。
反町茂作は新潟県長岡で明治21年10月10日に父・茂平(もへい)と母・トイの間に長男として生まれました。茂作の生家は屋号を丸福商店と称し、米の精米加工・卸の仕事から発展し先物の売買を行う仲買人として、新潟、東京にも出店、全国でも屈指の好成績を挙げていました。
茂作は新潟商業学校を経て、早稲田大学商科へ進み明治44年9月卒業、直ぐに父が経営する丸福商店東京店(日本橋蛎殻町)に入社。
その後証券取引に興味を持った茂作は、大正2年2月妹トキの夫 常次郎名義で(証券取引所の正会員には30歳以上との年齢制限があった)反町常次郎商店を兜町に設立。10月に支配人となり株式の売買を開始しました。翌3年第一次世界大戦勃発後景気は好転、株式市場も活況を呈することとなります。その中で茂作は父茂平の友人であり、後に損害保険会社設立の仲間となる根岸錬次郎(日本郵船役員)と巡り合い、錬次郎は有力な顧客となった様です。
大正7年大戦景気の絶頂期、茂作は繁盛を極めていた店を突如廃業、証券界から身を引くことになります。後に茂作はその理由を、この様な狂乱景気が長続きするはずがないと確信したこと、当時の業界の実情に飽き足らないものを感じていたと話をしています。
損害保険会社の設立
昭和27年 63歳 大東京火災海上保険会長当時
丁度そのころ同郷の伊原全郎は勤務していた日本動産火災保険会社(わが国最初の月掛火災保険会社)を退社、東京に新しい月掛火災保険会社を起こそうとしていました。
伊原は同郷の佐田新三とともに根岸錬次郎を訪ね発起人代表就任を懇請。その際、錬次郎は反町茂作を勧誘、茂作は損害保険事業の公共性、月掛火災保険の将来性を確信し、これに参画します。こうして大正7年大東京火災の前身、東京動産火災保険が誕生しました。
設立当初、茂作は監査役でしたが、直ぐに取締役に選任され、専務に就任すると毎月の取締役会だけに出席する根岸社長に代わり経営の先頭に立ちました。大正9年には普通火災営業の為に東神火災を設立、同社専務も兼務することになります。昭和9年には両社の社長に就任。昭和19年に両社が合併し大東京火災保険株式会社が誕生します。茂作は会社創立から昭和37年亡くなるまで40年間に渡り経営トップとして業界の優良会社に育て上げていきました。
美術愛好家、椿愛好家としての茂作
茂作は自分の趣味について「これらはいわゆる忙中閑の余業に過ぎず、真の趣味はやはり事業の経営にあり、独走を立てこれを実現することに無限の興味を持つ」と述べていますが、ではそのような趣味人としての側面を見てみましょう。
こちらにも父・茂平の影響が色濃くあった様です。茂平は文字はあまり読まなかったが、頭の回転が速く、記憶力の強い人だったと言われています。「帳簿を見なくとも誰にいくらの小切手を振り出したか全て記憶していた」との話が伝わっています。審美眼にも秀で、建築と庭作りに凝り、家には大工が始終出入りしていたそうで、美術品も好んで収集し、新潟出身の日本画家土田麦僊とは昵懇の仲であったそうです。
茂作もその審美眼を譲り受けたようです。
美術一般を趣味としていましたが、焼き物、特に中国の古陶磁については、鑑識蒐集で第一人者だったようです。「私は日本の物より 支那の物に心ひかれる。日本のものは古いと云っても精々三四百年前のもので、瀬戸、唐津等やってゆけば、一摑みにして考へることが出来る。そこへゆく志那の物は千年に余る歴史を持ち、千古不明の窯跡があったりして、今尚研究の余地はたくさん残されている。宋のものなど古くして種類も多く、見透しがつかない感じがする。それらを段々研究し新しいものを発見してゆく悦びが深い様に思う」(昭和8年 星丘茶寮会報 茂作寄稿文)
椿に関しては、古陶磁同好会「三四会」を通じ親しくなった石川清氏(後の日本ツバキ協会会長)によれば、「昭和二十八年の秋と記憶するが、「三四会」の席上で「椿」が話題となった。当時私は椿を始めたばかりで日本橋三越から小さな苗を数種買って植えていたが、 反町君はすでに十数種持っている事、 そしてそれは安行の椿花園、 皆川治助氏から求めた事を知った。私はさっそくその椿花園に車をとばし、かなり大きな赤侘介、桃色侘介、 熊坂、 唐錦等を買った。これが私を椿好きにしたキッカケである。もし反町君からの、あの時、あの紹介が無かったとしたら或いは私の椿熱は今の様に昂揚することなく終ったかもしれない。私が日本ツバキ協会会長に選ばれて間もなく反町君から招かれて家内と一緒に牛込戸山町の反町邸に行って、 椿を見たが相当大きな椿が数十株あり、 花期にはさぞかし見事だろうと思った。」と述懐しています。(昭和38年日本ツバキ協会会報)
茂作が椿を好んだきっかけについてははっきりした事は残っていません。
茂作の夫人ムツがお茶をよく嗜みその影響でお茶の花である椿を好んだ(茂作はお茶に対してはあまり好ましいとは思っていませんでしたが、晩年には庵号を「茂林庵」「靑々軒」と称し亭主を務めるまでになっていた)ともいわれることがありますが、茂作の弟茂雄は「冬でも青々としたものが好きであった」と話しています。郷里新潟はその県木にユキツバキが指定されるなど、身近に雪の中でも常緑を保ち鮮やかな花を咲かせる椿の生命力に惹かれたのではないかと推測されます。
次回は実際に椿をテーマとした美術品が収集されていった背景、経緯についてお話をしたいと思います。
あいおいニッセイ同和損保 「椿絵」コレクション ーひかり輝く明日へー
【会期】
Part Ⅰ2022年12月03日(土)〜12月25日(日)
Part Ⅱ2023年1月10日(火)〜1月29日(日)
【展覧会詳細】
https://unpel.gallery/exhibitions/tsubakiecollection2022/
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