椿絵コレクション-その由来#2


UNPEL GALLERYでは、2020年12月オープンして以来、ギャラリーを運営する、あいおいニッセイ同和損保が所蔵する「椿絵コレクション」の展覧会を毎年開催しています。

前回は、あいおいニッセイ同和損保の前身会社の一つである大東京火災の創業者反町茂作(そりまちしげさく)についてご紹介して、茂作の人となり、椿を好んだことなどをお伝えしました。今回はそのことが、後のコレクション収集にどの様につながっていったのか、という点を中心にお話をしていこうと考えています。

<椿が社花の様に親しまれたこと>

茂作は昭和27年会長となりますがその後も経営第一線で指揮をとり、病に倒れ昭和37年没することとなります。しかし茂作没後も椿はいろいろな形で社内に浸透していきます。昭和47年神奈川県二宮町に湘南東保園(研修所)を開所、当時の秋田社長が全国の支店長に「各地の椿を新設した研修所に植えよう」と呼びかけ全国から椿が寄贈され、それをきっかけとし敷地内に椿園が作られました。後には、昭和61年 日本ツバキ協会の年次総会参加のためにオーストラリアから来日されたお客さまにも披露されています。

二宮研修所

オーストラリアツバキ協会来日風景

また社屋や代理店に掲げられた社名看板も緑地に朱色で社名が描かれており、これも椿の葉の緑と花の赤を模したものと言われています。

看板風景

昭和53年には日本橋の本社で第1回の椿展(会社所蔵の椿絵と生の椿を展示)が開催され多くの椿愛好家が来社されました。

椿展

「椿」を正式に社花として決めたことはありませんでしたが、この様な形で社員・代理店に親しまれてきたことが分かります。

<椿絵コレクションのきっかけ>

この様な背景を踏まえて昭和51年社長に就任した反町誠一社長時代に椿をテーマとした美術工芸品の蒐集が始まります。

そのきっかけとなったエピソードを当時の総務部長、元取締役の狩野和男氏が語ってくれました。

「私が反町社長に同行して、あるお取引先の新しく竣工したビルに伺ったことの時です。先様を辞した後、社長と応接の絵の話になり、『お客様の目に触れる絵はもう少し重みのある落ち着いたものが良いね』とのこと。その時期会社は地方に店舗を多く出店していったことから、応接室支店長室に飾る絵は何が良いかと話題が移っていきました。当時会社には洋画家の五味悌四郎画伯作の椿の絵があり『花器に活けられている椿がモチーフだが、シンプルで誰もが分りやすい、五味さんに頼んではどうか』ということになり、描いていただくことになったのです」

当時は店舗を次々に地方に展開していく状況でしたので、五味先生には年間で30点以上お願いすることになっていました。モチーフは椿と花器、しかも飾られる場所は決まっていてサイズも大体同じとなるとヴァリエーションは椿の花の種類と花器の種類の組み合わせに限られます。最終的には約150点を描いていただきましたので大変ご苦労されたことと推察されます。

では、現在皆さまにご覧にいれている多種多様な絵画工芸品はどの様にして集められたのでしょうか?このことについては次回にお話をしたいと思っています。

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