同和火災コレクションについて(第1回)-コレクションの由来
このコラムではギャラリーを運営するあいおいニッセイ同和損保が所蔵するコレクションに関することをお伝えして行こうと考えています。第1回は、同和火災コレクションの由来についてお話します。
「同和火災コレクション」、いったい何のコレクション?
ギャラリーでは毎年9月1日防災の日に因み、会社に伝わる江戸時代からの災害にまつわる数々の資料を展示しています。
本コレクションは、その数およそ1400点、保険の営業案内など保険業に直接かかわるもの、火の用心などの防火に関係するものも含まれますが、その中核は地震、津波、噴火、台風、大雨、雷、大火、疫病等々あらゆる種類の災害記録で、対象地域は日本全国に広がり、時代も江戸時代中期から大正時代まで2百年以上におよぶ膨大なものです。
この様な災害に関する資料としては、東京大学新聞研究所初代所長 小野秀雄コレクション、東京帝国大学地震研究所第2代所長 石本巳四雄コレクションが有名ですが、それらに匹敵する学術的にも大変貴重なものと言われています。
コレクションの名称に「同和火災」という損害保険会社の名前が冠されています。現在のあいおいニッセイ同和損害保険会社の前身会社の一社である同和火災海上保険(以下同和火災)は、明治時代に誕生した横浜火災海上保険、共同火災海上保険(以下、共同火災)、神戸海上火災保険、その後大正時代に発足した朝日海上火災保険が、太平洋戦争末期昭和19年に合併してできた会社です。共同火災最後の社長で、合併後の同和火災の初代社長、廣瀬鉞太郎(ヒロセエツタロウ)氏がこれらの膨大な資料を大正時代の終わりから昭和10年頃までの約15年間に自ら蒐集し、その後会社に寄贈したことに由来しています。
廣瀬鉞太郎はどんな人だったのか?
廣瀬家は代々沼津藩家臣の家柄で、父・廣瀬担(たいら)氏は藩主水野出羽守に仕える家臣でした。維新後は新政府の工部省に入り、その後住友別子銅山の支配人となった人物です。鉞太郎は廣瀬家の長男として明治13年10月23日大阪に生まれ、京都師範付属小学校、京都府立第一中学校、山口高等学校を経て、36年京都帝国大学に入学。同大在学中には端艇部(ボート部)を創設する一方、柔道にも積極的に取り組むなどなかなかのスポーツマンだった様です。
同大学法学部を39年に卒業すると同年に創立されたばかりの共同火災に入社します。共同火災は他の多くの損害保険会社と同様、明治期の起業ブームの中で誕生しました。39年に東西財界人が“共同”で設立し、社名もこれに由来しています。本店は東京市日本橋区、氏は日本橋区檜物町5、6番地の関東営業部(現在のギャラリーの所在地付近です)に配属され、以後ここで営業畑を歩むこととなります。大正8年に本店は大阪に移転しましたが、廣瀬さんは関東営業部長として手腕を発揮し、11年には取締役に就任しました。
廣瀬さんが資料収集したきっかけは?
大正12年9月1日11時58分、南関東とその隣接地を大きな地震が襲いました。「関東大震災」です。本店が大阪に移ったとはいえ、東京・横浜地区は同社の主要マーケットであり、多くのお客様を持っていました。当時の火災保険は地震による損害は補償対象外で、現在のような地震保険制度もなく、損害保険会社には支払責任はありませんでした。しかし契約上の責任の有無に関わらず保険会社はこの非常時に支払を行い復興に寄与すべきとの世論が高まり、政界からの強い要請も火に油を注ぐ形になりました。当時の保険会社の資産総額は損害額に比し遠く及ばず、正に存亡の危機にさらされました。最終的には保険会社が政府から借り入れを行い契約者に支援金を支払うことで漸く決着をみることとなりましたが、廣瀬さんは長年関東地区の営業を担当してきた直接の責任者として被災者対応の先頭に立ち事態収拾に没頭することになったのです。罹災地に住み、惨状を目のあたりに各方面からの重圧を感じながら連日連夜対応に没頭した。そのことが災害に関する多くの史料を蒐集するきっかけになったと、氏自身が後の展示公開に際し述べています。
廣瀬コレクションから「同和火災コレクション」に
氏はその後昭和3年に常務、専務と昇進、社長空席の会社で実質的に経営の舵取りを行い、13年には社長に就任しました。太平洋戦争終了間際の19年 4社合併で発足した同和火災の初代社長にも廣瀬氏が就任しました。しかし戦後の新会社スタートは、戦火により家屋工場等の多くが消失し市場そのものが激減したこと、消防力の低下により火災が頻発したこと、加えて急激なインフレによる諸経費の高騰等々多くの困難に直面。また、GHQによる独占企業の分割の動きが、戦時下で統合された損害保険会社にもおよぶ等、戦後の復興が始動するまで苦難が続きました。
激動期のなか尽力した廣瀬氏ですが、経営陣が刷新される中、21年社長退任、翌年には取締役を辞任することとなりました。氏のコレクションの内、保険に関するもの、災害に関する資料が会社に寄贈され「同和火災コレクション」となったのはその前後と思われます。
激動の歴史の中、貴重な資料が戦災を逃れ、廣瀬さんの思いが形となり会社に伝わったことは誠に幸運だったと言えます。
(次回 第2回に続く)
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